呉羽山放浪
昔々、日出づる国へ日暮れ(クレ)る国から機織(ハタオリ)技術者集団がやって来て繁栄した。
いつしか(クレのハタオリ)達は(クレハトリ)と呼ばれるようになり、漢字では(呉服部)と書く。
呉羽丘陵の北西端に姉倉比売神社が古墳の上に建立されているが、古墳はその地の有力者の墓であることを考えると、埋葬者は姉倉比売と推定される。
神話の時代、姉倉比売という姿形の美しい女神さまが土地の人々と力を合わせて開拓を進め、また、娘たちに機織りを教えたという伝説がある。
これは大陸から来た機織技術者集団が栄えていたことを意味するのだろう。
これらによって、呉羽の名前の由来も、五福という地名があるのも、服部という苗字があるのも納得がいく。
小竹貝塚、蜆ヶ森貝塚、北代縄文遺跡などの存在からみても呉羽丘陵が古代から栄えていたことが分かる。
また、富山という地名も、都方面から見て呉羽山の外側に位置する、つまり外山であるということに由来するといわれる。
呉羽丘陵は呉羽山断層の西側が持ち上がってできた丘陵であるため、西側は緩やかな傾斜、東側は急傾斜となっているのが特徴だ。
標高は低いが富山平野の真ん中に位置するため、見晴らしも良く、周辺からもよく見える。
歩行距離14km、高低差50m、歩行時間4時間。
富山県立図書館。
富山市都市緑化植物園。
富山市民芸術創造センター。
姉倉比売神社:あねくらひめじんじゃ。
小竹貝塚。
約6000年〜5500年前の縄文時代前期の日本海側最大級の貝塚。
ほとんどが淡水産の貝なので当時は放生津潟がこの辺りまで広がっていたということだろう。
蜆ヶ森貝塚:シジミガモリカイヅカ、白髭神社。
小竹貝塚と同様の貝塚だが、社殿の下に貝殻が散らばっている。
北代縄文広場。
約4000年前の縄文時代中期の集落跡。
長岡御廟。
初代藩主利次が亡くなった際、後を継いだ正甫は、百塚に城を築きたかった父の思いを偲び、墓を百塚に隣接したこの地に建てて供養した。
以後、富山藩主歴代の墓所となっている。
牛ヶ首用水。
1624年から1654年にかけて開削工事が行われ、
現在では神通川第三ダムから取水して2058haの田畑を潤している。
工事責任者が八ヶ山の切り通し工事に苦慮していたところ、
「寝牛の首を取って草木眠る丑三つ時に人目を忍び難所に深く埋めよ」
との神のお告げがあったので、そのとおりにしたら工事が順調に行くようになったというのが名前の由来である。
五百羅漢。
535体ある羅漢像は、廻船問屋黒牧屋善次郎が北海道からの帰りに佐渡島から持ち帰ったものが始まりで、1799年から50年の歳月をかけて整備された。
富山市民俗民芸村。
民芸館、民芸合掌館、民俗資料館、考古資料館、陶芸館、茶室円山庵、売薬資料館など。
豊栄稲荷神社:とよさかいなりじんじゃ。
第2代藩主であり、富山売薬の祖である正甫公を祀り、家内安全、商売繁盛、開運厄除、子授安産など日々の生活の守り神として崇敬されている。