念仏小僧 犬太郎

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色

富山放浪

1639年、加賀藩第3代藩主前田利常は隠居するにあたって、
加賀藩119万石から富山藩10万石、大聖寺藩7万石を分藩し、
加賀藩主に長男光高を、富山藩主に二男利次を、大聖寺藩主に三男利治を就かせた。

これは、あまりにも大きな外様大名だった加賀藩が、分藩して規模を縮小し、幕府への恭順の意を示すためだったといわれている。

初代藩主利次は、百塚に新しい城ができるまで加賀藩から富山城を借り受けて居城にしていたが、財政難、地形難などのために築城を断念した。

1660年、自領であった新川、能美の飛地と富山城周辺の加賀藩領地を交換して富山城を自領とし、地理的にまとまった藩となり、本格的に城下町の整備が始まった。

こうして富山藩は出発したが、残念ながら松倉金山など資源の豊富な所、岩瀬など重要な施設のある所は加賀藩のままであった。

一方、加賀藩から多くの武士を引き継いだため、富山藩は終始財政難に苦しめられたようで、多額の債権を持つ加賀藩からの支配を抜け出せなかった。

富山藩領地図。
富山県立図書館「十万石富山御領図」より作製。

第2代藩主正甫は、江戸城中で腹痛の大名を救って高い評判を得た「反魂丹」を全国に行商させ、越中売薬の基礎を築いた。

第3代藩主利興は、家臣の作った「鮎ずし」を褒めて将軍吉宗に献上し、賞賛を得て現在の「鱒の寿し」のルーツを作った。

第10代藩主利保は、本草学に優れ、隠居後、下の茗温泉を基地に野山を渡り歩いて薬草を採取し、色鮮やかな植物図鑑「本草通串証図」を発刊した。

また、1853年3月にはナチュラリストの本領を発揮し、八尾町庵谷から残雪の尾根に取り付き、西白木峰、現在の金剛堂山の頂上に立った。

さらに、翌年には頂上で詠んだ歌を刻んだ歌碑を頂上直下に建立した。

この城下町においてネックだったのは神通川が中心部を湾曲して流れていたためよく氾濫したことだ。

明治時代になり、
オランダから招いた土木技師ヨハネス・デ・レーケの提案を受け、
1901年から1903年にかけて、現在の富山大橋から富山北大橋にわたる洪水時の余水吐水路を開削する工事が行われた。

その後、余水吐水路が本流となり、1914年に神通川は完全に直線化され、元の神通川は廃川地となった。

この廃川地は富岩運河の掘削土によって埋め立てられ、
現在は県庁や市役所、市総合体育館などが建って様変わりしているが、
松川や松川と合流後のいたち川がその痕跡である。

神通川旧河道。
富山県立図書館「都市公論」より作製。
青が旧河道、赤が舟橋。

歩行距離10km、高低差0m、歩行時間3時間。

今日歩いたルート。

松川。

富山電気ビル。
1936年に建てられた県内初の本格的ビルディング。

いたち川。
宮本輝芥川賞を受賞した「蛍川」の舞台となった川。

於保多神社:おおたじんじゃ。
前田家の家紋は梅だが、これは菅原道真の末裔を称するからである。
菅原道真、前田利次、前田正甫、前田利保を祀ってあり、「富山の天神様」といわれる。

延命地蔵水。
万病に効く霊水。

富山中教院。
日本一小さな神社。
明治初期、東京に神仏合同布教のため大教院が置かれ、支部として地方に中教院、小教院が置かれたが、その名残として、戦後、有志が建てたもの。

光厳寺。
富山藩前田家の菩提寺曹洞宗
大法寺と1年交代で菩提寺になる。

大法寺。
富山藩前田家の菩提寺日蓮宗
光厳寺と1年交代で菩提寺になる。

広貫堂。
売薬業者が扱う配置薬を製造するために1876年に設立された。
名前は第2代藩主正甫の「医療の仁恵に浴せざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ」との訓示に由来すると伝えられている。

左飛騨街道。
岩瀬で獲れたブリを塩漬けにし高山まで運んだが、大量に運ばれたためブリ街道ともいわれた。
富山から高山へは「越中ブリ」として、高山から松本へは「飛騨ブリ」として運ばれた。

日枝神社
「山王さん」の愛称で親しまれている。
春の「山王まつり」は700の露店が並び、50万人の人出で賑わう。

島川あめ店。
1663年に創業してから今でも昔ながらの製法で飴を作り続ける。
砂糖を使わず、麦芽とデンプンのみで作った「麦芽水飴」が人気商品。
デンプンを麦芽が分解して上品な甘みと香りを作り出す。
売薬さんが苦い薬を飲みやすくするために使ったり、忙しい職場の栄養補給に使ったりしたため、長く作り続けられてきたという。

池田屋安兵衛商店。
胃腸薬の「越中富山の反魂丹」は超有名。
名前は「身体に魂を返してくれる薬」から来ており、オウレン、センブリなど自然の生薬を配合している。

富山城址
戦国時代は佐々成政の居城、江戸時代初期には前田利長の隠居城、その後に富山藩前田家の居城となり、富山藩政の中心となった。
当時、天守閣はなかったらしく、1954年に戦後復興を記念して開かれた富山産業大博覧会の際、富山県が勝手に建てたようだ。

鱒の寿し店。
かつて近くを流れていた神通川サクラマスを使って各店独自の味を創り出してきた。

舟橋。
江戸時代に神通川に架かっていた唯一の橋。
名前のとおり船を並べて鎖でつなぎ板を渡して橋の代わりにしていた。

常夜燈。
舟橋には北詰と南詰に常夜燈があったが、これは北詰のもので森林水産会館の前にある。
従って、旧神通川左岸はこの辺りにあった。