●起源●
第2代富山藩主前田正甫は、腹痛を起こした際、「反魂丹」が効いたので、
常に「反魂丹」を印籠に入れて携帯していた。
1690年、江戸城内において、
三春藩主秋田輝季が激しい腹痛を訴えたため、
その場に居合わせた正甫が「反魂丹」を服用させたところ、
すぐに腹痛は治まった。
これを見ていた諸大名は、その薬効に驚き、自分の藩内での販売を頼んだ。
正甫は「反魂丹」を全国に行商させ、越中売薬の基礎を創った。
●全国行脚●
北海道から九州まで、20kgもある柳行李を背負って、
毎日20〜30kmの道のりを歩いたという。
日本全国の情報を収集し、また、情報を広く提供した。
●先用後利●
当時、一般庶民が必要な薬をすぐ手に入れたり、
何種類もの薬を買い揃えておくことは困難だった。
そこで、先に薬を預けておき、後で利用した分だけの代金を取る、
という独特の販売形態ができた。
●懸場帳●
得意先の薬の種類や使用量だけでなく、
家族構成や健康状態なども記録して顧客管理を行っており、
これさえあれば商売ができるため、高額で取引されたという。
●明治維新●
北前船は北海道から大量の昆布を富山へもたらした。
この昆布はさらに大阪まで運ばれ、
密貿易によって薩摩藩領の琉球を経由して中国へ送られた。
中国ではヨード不足による甲状腺肥大の薬として昆布が使われた。
代わりに薬の原料が密貿易され、越中富山の売薬業を支えた。
これにより薩摩藩の財政は潤い、倒幕の原動力となった。
●売薬資本●
明治時代になり近代産業が起こったとき、売薬で蓄えられた資本は、
北陸銀行、北陸電力などへと発展して行った。
金岡家。
1800年代に創業した薬種商。
薬種商とは薬を調合して販売する店のこと。
北陸電力、富山第一銀行、テイカ製薬、インテック、富山国際大学、
などの基盤を創った。
柳行李。
上から、
1段目は、懸場帳、算盤、財布、筆記用具。
2段目は、おまけの版画、紙風船。
3段目は、回収した薬。
4段目は、新しい薬。
5段目は、新しい高い薬。
広貫堂。
売薬業者が扱う配置薬を製造するために1876年に設立された。
名前は、第2代藩主正甫の
「医療の仁恵に浴せざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ」
との訓示に由来すると伝えられている。
江戸城中において正甫が大名の腹痛を救った時の様子。
池田屋安兵衛商店。
1830年創業。
胃腸薬の「越中富山の反魂丹」は超有名。
名前は「身体に魂を返してくれる薬」から来ている。
富山市売薬資料館。
神農まつり。
売薬に携わる家では、毎年1月8日に床の間に神農像を掛け、
商売道具を置き、商売繁盛を祈願した。