婦負の山々の入口に位置するこの町が、
古くから発展していただろうことは容易に想像が付くが、
歴史上は1551年に創建された聞名寺の門前町として発展した。
また、1636年、
米屋少兵衛が加賀藩から「町建御墨付」を拝領して町としての格式を得た。
さらに、1639年、
富山藩分藩にともない富山藩領となり富山藩経済を担う重要な都市となる。
江戸時代には養蚕業、製紙業、薬草業など富山藩産業の中心地、
婦負山間地からの物資の集積地、井田川船運の拠点、
飛騨裏街道による飛騨交易の要所として繁栄した。
昭和の時代に入り、これらの産業は順次衰退し社会構造も変化したが、
現在では「おわら風の盆」、「八尾曳山祭」に代表される伝統文化、
「坂の町」などの希少景観による観光で多くの人を集めている。
江戸時代の富山藩の姿。
富山県立図書館「御領分略絵図」。
八尾の名前の由来は、八つの尾根が集まることから来ているといわれる。
八つの尾根が集まるということは、谷間を吹き下る風が集束して強くなり、
稲作にとっては不利になるものの、蚕部屋や桑畑の風通しが良くなり、
蚕の成長を促したり桑の病虫害を防ぐ効果があり、養蚕業を発達させた。
また、富山藩の売薬業の発展にともない、
包紙、袋紙、膏薬紙の需要が増えて製紙業が、そして、薬草業も発達した。
八尾の人はこの三日間に全てを捧げるという「おわら風の盆」。
「おわら」という名前の由来は、
唄の間に「お笑い」という言葉を挟んで踊った「おわらい」、
豊年万作を祈念した大藁「おおわら」、
小原村の娘が唄い始めた「おはら」などの諸説がある。
また、「風の盆」とは、
この地域は風が強くて稲作に被害が出ること、
地元では一般的に休みのことを盆といっていることから、
「風の強い季節に豊作を願う休日」ということを意味しているのだとか。
その始まりは、
開町の祖米屋少兵衛の子孫が「町建御墨付」を他所へ持ち出し、
なかなか返してくれなかったが、1702年に取り返すのに成功した。
これを祝って三日三晩踊り歩くことを富山藩が許可したことだといわれる。
眼鏡橋。
1915年建造。
八幡社。
1576年創建。
八尾曳山祭はここの春季例大祭である。
原型となるものが1741年に始まったが、
八尾の財力に物を言わせて豪華絢爛なる山車になって行った。
狛犬の台座だが、石の積み方が優雅。
聞名寺。
1551年創建、浄土真宗本願寺派、桐野山聞名寺。
現在の本堂は1812年に創られたもので、総欅造り銅板葺きの建物。
昭和18年のおわら、聞名寺にて。
前列の女性と中列の男性ともに笠の被りが浅い。
一番の問題は後列の地方が頭に変な物を被っていることだ。
諏訪社。
1350年頃に領主であった諏訪左近が崇敬した神社。
八尾の街並み、諏訪町通り。
米屋少兵衛。
金沢で加賀藩から「町建御墨付」を拝領して八尾へ持ち帰って来た姿。
秋葉神社。
1890年に八尾で大火があったため、
1891年に火伏の神を分霊して火の神様となった。
若宮八幡宮。
1693年創建、蚕養宮ともいわれる。
養蚕業が栄えていたため蚕が祀ってある。
曳山展示館。
「富山藩の御納戸」と呼ばれた八尾に相応しい豪華絢爛な山車。
山吹橋。
1930年に建造されたものを1955年に現在地に移設した。
現在、通行禁止。
桂樹舎和紙文庫。
八尾和紙は丈夫で腰があり、書くための紙ではなく加工用の紙である。
昔は越中売薬用、今は財布や鞄に使われている。