1822年、第12代藩主・前田斉広は、
現在の兼六園の中央に隠居所の竹沢御殿を造り、
奥州白河藩主・松平定信に依頼して庭を「兼六園」と命名した。
「兼六園」という名称は、
「六つを兼ねる園」という意味であるが、
宋の詩人・李格非の書いた「洛陽名園記」という書物の中の、
「広々としていれば(宏大)、静かな奥深さはない(幽邃)。
人工的であれば(人力)、古びた趣は少なくなる(蒼古)。
池や曲水や滝が多ければ(水泉)、遠くは眺められない(眺望)。
相反する六つの景観(六勝)を兼ね備えているのは、
『湖園』だけである」
という文章から、
まさに兼六園がそうであるという理由で名付けたものである。
第13代藩主・前田斉泰は竹沢御殿を取り壊したが、
跡地を整備し、曲水・植栽を加え、霞ヶ池を広げて、
今日ある廻遊式庭園にした。
日本武尊。
七福神山。
栄螺山(さざえやま)。