浮田家
浮田家は1500年代にこの地に根付いた豪農である。
宇喜多家と縁があり「浮田」を名乗るようになったといわれる。
ちなみに当地は富山市であるが加賀藩領であった。
敷地面積1573坪、建物面積134坪。
3代宗兵衛、奥山絵図方、500石。
1693年、4代宗兵衛、山廻役。
5代宗右衛門、1000石。
6代覚右衛門、奥山廻役、代官兼務、1500石。
1827年、7代善左衛門、3000石。
奥山廻役とは、立山・黒部一帯の山林保護や国境監視のため、
奥山巡視を行う役職である。
前田利家の四女・豪姫は、岡山城主・宇喜多秀家に嫁ぎ、二男二女を産む。
秀家は関ヶ原の戦いに敗れ、1606年、息子二人と八丈島に流される。
八丈島では浮田を名乗った。
豪姫は娘を連れ、兄の前田利長のもとに帰るが、
1634年、61歳まで八丈島に金品を送り続けた。
前田家も意志を引き継ぎ、1869年まで援助を続けた。
1870年、東京の加賀藩下屋敷に土地を与えられ八丈島から移住。
1873年、明治天皇から浦安に19900坪の土地を与えられ、
前田家からも金1000両が贈られる。
前田家と宇喜多家(浮田家)の実に濃い不思議な関係。
越中の浮田家は、秀家と豪姫の男の子、あるいは秀家と某女の男の子、
いづれも徳川幕府に対して、表沙汰にはできない子供の血筋を引いている、
のではないかという説がある。
前田家の指示のもと、八丈島との連絡役をしていたかもしれない。
台所にある二階への入口。
階段を付けたり外したりしなければならない。
本座敷の釘隠し、水仙。