加賀百万石とよく言われるが、元々は119万石であった。
江戸時代初期、徳川幕府に遠慮し、富山藩10万石、大聖寺藩7万石を分藩して102万石に規模を縮小した。
この山は加賀藩と富山藩の藩境にあり、加賀藩では金剛堂山、富山藩では西白木峰と呼んでいた。
一般的には前金剛が頂上だが、最高点は中金剛にある。
1853年3月、既に隠居していた第10代富山藩主前田利保はナチュラリストの本領を発揮し、家来を引き連れて八尾町庵谷から残雪の尾根に取付き頂上を踏んだ。
翌年、山頂で詠んだ歌を刻んだ歌碑を持ち上げる。
中金剛の手前にある歌碑がそれである。
この歌碑は豪雪の金剛堂山にあって冬でも頭を出している不思議な歌碑。
何が書いてあるか読めないが、「飛騨信濃木曽の峰々みな見えて西は残さぬ白木山かな」と書いてあり、西は残さぬとは西にはもう高い山はないという意味らしい。
当時こんな巨大な物をよく人力で担ぎ上げたものだと感心する。
何故かこの歌碑が気になったので何年振りかで中金剛まで行ってきた。
歩行距離11km、高低差870m、上り2:30、下り2:10。
今日出会った登山者約50人。
歌碑。
これが本当に160年もの間、この山の厳しい風雨雪に耐えてきた姿なのだろうか。
あまりにも立派すぎる。
加賀藩に遠慮したのか、尾根の真ん中ではなく富山藩側に寄って建てられ、碑面も富山藩側にあるので後ろに落ちそうで見るのに窮屈だ。